不明部分や食い違いも多く、推測に頼っている部分もありますがご了承ください。
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姓名:ニルス・エドヴァルド・カタヤイネン
生没:1919年5月31日-1997年1月15日
所属:第24戦隊第3飛行隊(1941年6月18日)、第48戦隊(1942年9月9日)、第6戦隊(1942年10月18日)、第24戦闘機隊第3飛行隊(1943年4月9日)
階級:軍曹(1941年7月23日?)、少尉(1942年4月12日)、中尉(1943年9月24日)
叙勲:マンネルヘイム十字勲章(1944年12月21日、全軍170人目)、その他多数
戦歴:出撃回数196回、撃墜35.5機
パイロット訓練 -幕開け-
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(左)フィンランド空軍の識別マーク「青のスワスチカ」
(右)主力戦闘機ブリュースター・バッファロー。写真は米海軍機。
ニルス・エドヴァルド・カタヤイネン(Nils Edvard Katajainen)は1919年5月31日、フィンランドの首都ヘルシンキに生まれた。通称はニッパ(Nipa)。子供のころからパイロットに憧れていたカタヤイネンは、グライダー・パイロットの教習所へ進んだ。
1939年11月、ソヴィエト連邦がフィンランドに侵攻を開始し、冬戦争が勃発した。カタヤイネンは軍に志願入隊し、下士官候補生として戦闘機パイロットになるための訓練を開始した。
冬戦争は1940年3月にひとまずの休戦を迎えた。カタヤイネンはパイロット候補生としての訓練を続け、1941年までに課程を修了した。しかし、3月には一時的に軍を離れている。おそらく、パイロットの数に比較して機体が少なかったため、人員整理を行ったのではないだろうか。
1941年6月初頭、ソ連との戦闘再開が差し迫ってきたため、軍に復帰したカタヤイネンは、軍曹に任官して第24戦隊第3飛行隊(3./LentoLaivue24、3./LeLv24)に配属された。
グスタフ・エリク・マグヌッソン少佐(*1)率いる第24戦隊は、休戦期間中に機種改変したばかりのブリュースターB-239バッファロー戦闘機を装備しており、山猫を部隊章としていたことから<山猫戦闘機隊>と呼ばれた。カタヤイネンの配属された第3飛行隊の隊長は冬戦争のエース、ヨルマ(ヨッペ)・カルフーネン大尉(*2)がつとめていた。
カタヤイネンは早速バッファローに乗り込み、最初の訓練飛行に出た。ところが、彼の不運は早くもこの日から始まった。
飛行場が不整地だったためか、離陸直前、バッファローが急に弾み、ランディング・ギア(着陸脚)がはじけとび、それがエレベーター(昇降舵)を破壊したのである。普通ならこの時点で離陸を断念するほどのダメージだが、スピードが出ているために無理に止まるのも危険である。カタヤイネンは思い切って飛び立った。カルフーネンはすぐに着陸するよう指示した。しかし、片方のランディング・ギアが折れているために片輪のみで着陸しなければならない。
カタヤイネンはこれに挑み、見事に成功させた。着陸時に機体も若干破損したが、簡単に修理できる程度だった。操縦技術に関しては問題のないことを証明したわけである。とはいえ、なんとも先行き不安な初飛行であった。
*1 Gustaf Erik Magnusson。撃墜5.5機。マンネルヘイム十字勲章授賞。大戦時の最終階級は大佐。退役後に少将を追贈。
*2 Jorma "Joppe" Karhunen。撃墜31機(第11位)。マンネルヘイム十字勲章授賞。大戦時の最終階級は中佐。退役後に大佐を追贈。
実戦参加 -襲い掛かる不運-
バッファローの尾翼に腰掛けるカタヤイネン。6機の撃墜マークが見えることから、BW-368号機と推測される。
1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動し、ソ連への侵攻を開始した。当初、フィンランドは様子を見守っていたが、6月25日、ソ連側からの砲爆撃をきっかけとし、奪われた領土を奪還すべく攻撃を開始した。継続戦争の勃発である。
1941年6月28日、この日カタヤイネンは記念すべき初撃墜を達成した。乗機はBW-365号機(BW-395? *3)、相手はツポレフSB-2爆撃機だった。ところが、敵機銃手の反撃により、カタヤイネンのバッファローもエンジンに被弾した。カタヤイネンは煙を吹くエンジンをなだめながら飛行場に帰還したが、着陸態勢に入ったところで、ついにエンジンが焼きついて止まってしまった。どうにかそのまま滑空飛行で着陸したものの、あやうく初撃墜と初被撃墜を同時に経験するところだった。
1941年8月12日、BW-368号機で飛び立ったカタヤイネンは、ポリカルポフI-153戦闘機(チャイカ)の編隊と交戦し、一度に2機を撃墜、累計撃墜5機でエースの仲間入りを果たした。
しかし、カタヤイネンのバッファローも空戦中に敵弾を喰らい、一発は燃料タンクに穴を開けてガソリン漏れを引き起こした。ガソリンの尾を引き、いつ燃料に引火するとも知れない危険な状況だったが、カタヤイネンは必死に敵を振り切って基地へ帰投した。
1941年10月、偵察飛行に出撃したカタヤイネンは、途上で敵の対空砲火に襲われ、機体各所に被弾した。急遽、基地に引き返すことにしたが、飛ぶごとにエンジンの調子が悪くなり、ついに突然止まってしまった。カタヤイネンは慌ててあれこれと試し、どうにか手動でエンジンを再始動させた。
だが、依然としてエンジンの調子は最悪である。高度はどんどんと下がっていき、樹木に触れんばかりの低さだった。おまけにようやく基地まで着こうかという頃になってエンジンが燃え出した。カタヤイネンは煙に視界をふさがれ、ひどく咳き込みながらも、なんとか滑走路に着地した。バッファローのダメージは相当なものだったが、熟練のフィンランド整備兵はしっかりと修理し、間もなく戦列に復帰した。
この頃、ソ連空軍はドイツ空軍の攻撃によって大きく消耗しており、フィンランド空軍に対する攻撃も低調になっていた。フィンランド軍は冬戦争で奪われた領土を再占領してから、それ以上の線には進出していなかった。これはあくまでも領土回復のための戦争であり、侵略戦争ではないという姿勢を示すためである。ソ連軍もドイツ軍の攻勢に対処するのに手一杯だったため、これを幸いとフィンランド方面の戦力をドイツ方面に振り向けた。こうして戦線は安定し、冬も迫ってきたため戦闘も散発的なものとなっていった。
実際、交戦機会が減ったためだろう、カタヤイネンは1941年10月から翌1942年2月までスコアを上げていない。
もっとも、一時は安定してもすぐにまた乱れるのが戦争である。この間にソ連は着実に戦力を増強していた。連合国が送り込んだPQ船団から、次々と大量のレンド・リース兵器が荷揚げされていたのである。1942年が明けると、ホーカー・ハリケーンやカーチスP-40といった連合国製の戦闘機が、赤い星をつけてフィンランド上空にも出現するようになり、ソ連軍の攻勢は徐々に活発になっていった。
だが、フィンランド空軍のエースたちの傑出した腕前は、これら新鋭機を前にしても揺るがなかった。例えば第24戦隊は、4月2日に大規模なハリケーン編隊と交戦し、一度に11機を撃墜している。対して第24戦隊側の損害は1機小破にすぎなかった。せっかくレンド・リースされたハリケーンも、次々と撃墜されるため、5月ごろになるとかなり数を減らしていたとされる。もちろん、フォンランド空軍のみの手柄ではなく、ドイツとの戦線でも相当落とされているためだが。
カタヤイネンもスコアを伸ばし、1942年3月9日にはSB-2とMiG-3を一機づつ撃墜した。1942年4月12日付けで少尉に昇進。
1942年6月25日、ムルマンスク鉄道の上空でカタヤイネンは初めてハリケーンと交戦した。この時の乗機はBW-388号機である。ここは『北欧空戦史』末尾のインタビューから、カタヤイネン自身の言葉を引用させてもらおう。
6月25日のハリケーンとの初見参はこんな具合でした。私達は8機のBWで朝遅く、ラドガ湖の西方ヒルパスを飛び立ち、ソ連機の基地のあるセケヘへなぐりこみに行きました。高度3000メートルでセケヘまできたとき、ハリケーン6−7機が上昇しているのを見ました。彼らはすでに、ハリケーンのベスト高度である5000メートルに到達しています。
私達はすぐに上昇旋回に移りました。先行するアホカの機尾にハリケーンがくい下がったので、私が追っ払うと、別のもう1機が私の後方に迫ってきました。当然高度を下げつつ垂直旋回の戦闘になります。何回まわったかはわからぬほどですが、まわりながら超低空まで下りたとき、BWはハリケーンの後に逆にくいついていました。私が一撃するとハリケーンの左脚が下がり、次の一撃で一翼がけし飛び、ほとんど木の梢の高さで撃墜しました。私はこの日夏服で出撃したのですが、それでもこの桶の中を回るような連続急旋回で、空戦の終わったときには、汗をびっしょりかいていました
(『北欧空戦史』P387)
これはまた、カタヤイネンにとって記念すべき10機目の敵機撃墜でもあった。
だが、幸運と不運が入れ替わりにやってくるのがカタヤイネンである。
数日後、カタヤイネンはBW-365号機(BW-395? *4)のテスト飛行を任された。この機体は、数日前にソ連軍占領地に不時着したのを、陸軍が必死に回収してきたものだった。
たかが一機の回収に陸軍を動かすなど、フィンランド軍でなければ考えられない逸話である。それほどにバッファローは貴重な戦闘機だったのだ。フィンランド空軍のパイロットたちはバッファローを「空の真珠(Taivaan helmi、タイバーン・ヘルミ)」と呼んだが、優れた機体という意味だけでなく、貴重という意味も込められているのだろう。カタヤイネンが多数の不運に見舞われながらも常に機体を捨てなかったのもそのためである。
ともあれ、修理のなったバッファローをカタヤイネンは早速飛ばしてみた。ところが、離陸直後からエンジンが異動振動を起こし、プロペラの回転も不安定になってきた。カタヤイネンは慌てて機首を戻し、着陸態勢に入った。ランディング・ギアが接地した瞬間、機体は大きく傾き、そのままひっくり返ってしまった。一方のランディング・ギアが、ぬかるんだ泥にはまりこみバランスを崩したのだ。
普通ならただではすまないほどの大事故だった。ところが、驚いたことにカタヤイネンは自力でひっくり返った機体の下から這い出してきた。傷もほとんどなかったという。まさに不死身のカタヤイネンである。こうなると幸運なのか不運なのか、判断に困るところではある。
*3 『北欧空戦史』(P285)だとBW-395号機だが、その他のソースではBW-365号機。
*4 *3に同じ。
転属 -どん底の日々-
フィンランド空軍のツポレフSB-2
1942年8月16日、BW-373号機で出撃したカタヤイネンは、I-16戦闘機を2機撃墜した。これで彼のスコアは撃墜13機となった。
すでに先が見えているかもしれないが、やはりこの幸運の後には不運が待っていた。それも今度のは極め付きだった。
カタヤイネンに対し爆撃機隊への転属命令が下ったのである。ことあるごとに貴重な戦闘機を壊してばかりいるのが目をつけられたのだ。カタヤイネンの空戦の才を認めていたマグヌッソン戦隊長は、転属命令の撤回を願い出たが、聞き入れられることはなかった。
1942年9月9日、カタヤイネンは第48戦隊(LentoLaivue48、LeLv48)に転属し、SB-2爆撃機の訓練を受け始めた。それまで軽快なバッファローで飛び回っていたカタヤイネンにとって、鈍重なSB-2は到底満足のいく機体ではなかった。それでも一応の訓練を修了し、1942年10月18日付で第6戦隊(LentoLaivue6、LeLv6)に転属し、実戦任務に着くこととなった。もっともSB-2はすでに時代遅れの機体で、最前線での爆撃任務には耐えられないため、主な任務はバルト海での対潜哨戒だった。
あまりにも退屈な日々にカタヤイネンは我慢ならず、何度も上官に戦闘機隊への復帰を請願した。しかし、返ってくるのは冷たい拒否の言葉だけだった。それどころか、機嫌を損ねた上官は、カタヤイネンを飛行任務から外し、ハンガーの掃除係に任命した。
戦闘機の操縦桿を自在に操ることができるカタヤイネンの手にホウキを握らせるとは!
さすがにこれはあんまりだということで、ほどなく飛行任務には復帰できたものの、やはり退屈な対潜哨戒はカタヤイネンにとって苦痛でしかなかった。再び『北欧空戦史』のインタヴューを引用する。
中山:辛い体験もおありだと思いますが、現在振り返ってごらんになって、何が一番辛かったですか?
カタヤイネン:私は戦闘機隊勤務を外された半年間、まことに情けない思いをした。
中山:分捕り品のSB-2に乗っていたときですね?
カタヤイネン:そうです。
中山:SBそのものはいかがでしたか?
カタヤイネン:速い上に安定が良く、頑丈で、軽爆としては良い飛行機でした。大変良く印象に残っています
(『北欧空戦史』P407-408)
これを見る限りではSB-2自体はそれほど悪印象ではなかったようだ。それでも戦闘機の魅力にはやはり及ばないのだろう。結局、カタヤイネンは復帰願いの攻勢を再度仕掛けることとなる。
戦闘機隊復帰 -そして不運も蘇る-
新たな乗機、メッサーシュミットBf109。写真は独軍機。
1943年4月9日(4月4日? *5)、必死の運動の甲斐あって、ついにカタヤイネンは古巣の山猫戦闘機隊への復帰を果たした。ただし、この時には第24戦闘機隊第3飛行隊(3./Havittajalentoivue24、3./HLeLv24)と名称が変わっていた。
カタヤイネンに与えられたのはBw-353号機。実に七ヶ月ぶりのバッファローだった。カタヤイネンの胸中は喜びに満ちていたに違いない。
1943年5月9日、カタヤイネンはYak-7戦闘機を撃墜。一ヶ月ほどで以前の勘を取り戻した。1943年5月18日、Yak-1戦闘機を撃墜し、累計撃墜15機を達成。さら1943年5月20日にもLa-5戦闘機を撃墜した。10日で3機というハイペースである。
一見、順調に思われたカタヤイネンだったが、案の定というべきか不運が再び彼を襲った。
1943年6月6日、バルト海上空で交戦したカタヤイネンは、敵の機銃をくらった。20ミリ機関砲弾がバッファローの翼の一部を直撃、弾けとんだ破片が外板を貫いて操縦席に突っ込み、カタヤイネンの脛に突き刺さった。カタヤイネンは痛みをこらえながら、翼の損傷でバランスを失いそうになるバッファローを操縦し、いつものように基地に帰投した。
傷は思ったよりも深く、病院に運ばれたカタヤイネンは、入院しなくてはならなかった。数週間後、退院したカタヤイネンを待っていたのは、傷を完治させるために長期休暇せよとの命令だった。
この長期休暇の間にカタヤイネンは結婚した。負傷しなければ前線に張り付いたままで、到底結婚などしている余裕はなかっただろう。またしても幸運と不運は入れ替わりにやってきたわけである。
数ヵ月後、傷の癒えたカタヤイネンは前線に復帰した。1943年9月23日にはLa-5を2機撃墜し、健在を証明した。1943年9月24日付で中尉に昇進。
厳冬期が近づいていたこの頃、ソ連軍は攻撃を控え、大規模な攻勢の準備を進めていた。交戦機会も減り、カタヤイネンのスコアは止まった。
1944年2月、第24戦闘機隊第3飛行隊のもとに新たな装備が届いた。同盟国ドイツから供与されたメッサーシュミットBf109G(あるいはMe109G。通称はメルス)である。
Me109Gの第一陣、16機がフィンランドに受け渡されたのは1943年3月のことだった。この新鋭戦闘機は、新設された第34戦闘機隊に全てまわされた。この飛行隊はエイノ・ルーカネン(*6)やイルマリ・ユーティライネン(*7)、オリ・プハーカ(*8)といったエースたちを集めた精鋭部隊であり、Me109G受領後、彼らはさらに目覚しい勢いでスコアを伸ばしていった。
Me109Gの供与は1944年初頭まで続き、既存の第24戦闘機隊にも配備されていった。最終的には48機のMe109Gが二個戦闘機隊に編制された。カタヤイネンたちの第3飛行隊は、もっとも遅くMe109Gを渡された部隊だった。
1944年2月27日、早速、第3飛行隊はMe109Gの慣熟訓練を行った。まずは飛行隊長ヨッペ・カルフーネンが飛び、問題なく戻ってきた。次はカタヤイネンの番だった。スムーズにメルスを離陸させ、上昇に移った瞬間、いつもの不運が発動した。急にエンジンが咳き込み始めたかと思うと、いきなり黒煙を吐き出し始めたのである。
カタヤイネンは急いで機首を水平飛行に戻した。そうこうしている間にもエンジンは暴走し、ついには炎を吹き出し始めた。黒煙にまみれながらも、カタヤイネンはエンジンを切って、滑空飛行でなんとか着陸した。すぐに整備兵が消化してくれたものの、エンジンはお釈迦になってしまった。新型機といえど、カタヤイネンに取り付く不運の影響からは逃れられなかったのだ。
一週間後の1994年3月6日、カタヤイネンは再度Me109Gのテスト飛行を行った。この日はあいにくの悪天候だった。強風で雪が舞い上げられており、視界がひどくふさがれていたのだ。
カタヤイネンはメルスを滑走させ始めた。だが、視界が悪すぎるために、機首がわずかに左に向いていることに気がついていなかった。速度を出しすぎると危険と考えたため、離陸可能な速度に達したところですぐに機首を上げた。
次の瞬間、猛烈な衝撃がカタヤイネンを襲った。滑走路の両脇には邪魔な雪をのけて盛り上げてあったのだが、その雪山に左翼が引っかかったのである。バランスを失ったメルスは思いっきり投げ出され、離陸速度のまま雪の大地に突っ込んでいき、ばらばらになった。
大事故である。さしも不死身のカタヤイネンも、今度ばかりは死んだろう。そう思って駆けつけた整備員たちは、コックピットの中に頭から血を流して倒れているカタヤイネンを発見した。
だが、彼は生きていた。ひどい脳震盪と全身打撲を負ってはいたが、ともかくまだ生きていた。
幸運だったのは、速度を出しすぎなかったことと、やわらかい雪の大地に落ちたこと、エンジンが燃えださなかったことである。どれか一つの条件が欠けても助からなかっただろう。
病院に担ぎ込まれたカタヤイネンは、長期入院を命じられた。それから四ヶ月をカタヤイネンは病院で過ごした(*9)。
*5 『北欧空戦史』(P287)だと4月4日だが、その他のソースでは4月9日。あるいは4月4日は転属辞令を受け取った日か?
*6 Eino "Eikka" Luukkanen。撃墜56機(第3位)。マンネルヘイム十字勲章授賞。大戦時の最終階級は中佐。
*7 Ilmari Juutilainen。撃墜94機(第1位)。マンネルヘイム十字勲章を二度授賞。大戦時の最終階級は曹長。
*8 Olli Puhakka。撃墜42機(第6位)。マンネルヘイム十字勲章授賞。大戦時の最終階級は大尉。戦後も空軍に残り大佐(少将?)まで昇進。
*9 脳震盪と全身打撲にしてはずいぶんと長い入院期間ではある。ひょっとすると、貴重なメルスをぶっ壊したカタヤイネンを戦闘機隊に戻さないために、偉いさんが入院を長引かせたのかもしれない。もちろん、これは何の根拠もない邪推w
流血の夏 -最高の活躍と最低の不運-
Me109Gのコックピットに座るカタヤイネン。時期は不明。
1944年6月9日、ソ連軍の夏季攻勢が始まった。
兵員380,000名、砲10,000門、戦車800両、航空機1,600機による大攻勢である(*10)。これはドイツへの大反攻であるバグラチオン作戦と連動した攻勢だった。
対するフィンランド軍は兵員270,000名、砲2,000門、戦車110両、航空機248機。明らかな劣勢であった。カタヤイネンは病院に届いた仲間からの手紙でこの攻勢を知った。
「リュッシャが攻めてきているのに、病院で寝てなどいられない。すぐに出撃だ!」(*11)
カタヤイネンは退院の許可を取り、すぐさま第24戦闘機隊第3飛行隊に復帰した。三度目のMe109Gのテスト飛行は無事に成功した。そしてこの新たな翼は、カタヤイネンに素晴らしい力を与えた。
6月23日、MT-441号機で出撃、3機撃墜(1機は協同撃墜)。
6月26日、MT-436号機で出撃、再び3機撃墜。
6月28日、MT-436号機で出撃、三度3機撃墜。
6月29日、MT-462号機で出撃、1機撃墜。
6月30日、MT-462号機で出撃、1機撃墜。
7月1日、MT-462号機で出撃、2機撃墜。
7月3日、MT-476号機で出撃、なんと4機撃墜。
驚くべきことに10日間で16.5機撃墜というハイペースである。四ヶ月のブランクなどまるで感じさせないほどの活躍だった。
このなかでは6月28日の空戦が二つの意味で特別なものであった。まず、カタヤイネンの僚機だった、フォンランド第2位のエース、ハンス・ヘンリク(ハッセ)・ウィンド大尉(*12)の最後のフライトであった点。彼はこの日撃墜されて負傷し、以降は病院で休戦を迎えた。そしてもう一つは、公式記録ではソ連にレンド・リースされていないP-51Aアパッチ戦闘機を撃墜したという点である。
ここで三度、『北欧空戦史』のインタヴューを引用させていただく。
カタヤイネン:私がP-51を落としたのはハッセ・ウィンドがやられた日の因縁の空戦だ。場所はカリラと同じビープリー。
中山:現在はソ連領にされているビボルグですね。
カタヤイネン:そうです。1944年夏には、その近くに前線があり、その上空の制空権の取り合いは猛烈でした。私は雲のない夏空に、Me109Gで、ハッセ・ウィンドとともに飛び立ちました。ラペーンランタから一端海上に出て偵察した後、左旋回して陸地に向かいました。
カリラ(*13):毎日のようにビープリー湾の上を飛んだのは、フィンランド軍の後方にソ連軍が船団で上陸部隊を送るのを警戒していたのです。
カタヤイネン:私達は鉄道上で7機のYak-9を見つけ、攻撃したのです。ハッセはその1機を撃墜しました。その瞬間P-39が20数機雲の上から降ってきたのです。ハッセは混戦の中で1機のP-39を落としましたが、自身も被弾し、左足の重傷を負ってラペーンランタに帰投しました。私にもP-39が1機追尾してきたので、急降下に移りましたが、P-39も高速でダイブしてくるので、私は直ちに細かく舵を使って蛇行しました。
カリラ:そしたら面白いことに、彼のメルスとソ連のP-39が翼端相接して、横並びになってしまったのだ。そのまま競争でもするように機首を下げて、急降下していったのだ。
カタヤイネン:私がまた同じ操作を繰り返すと、今度はP-39は私の直前にありました。短く二連射、それで炎と黒煙がほとばしって、P-39は落ちました。
中山:二連射と言うのは、何発くらいですか?
カタヤイネン:そうだなあ…(カリラと相談して数える)二十発くらいです。私が引き起こしてズーム上昇したとき、目の前を飛んでいた5機編隊が、赤い星のP-51Aだったのです。彼らは後方にいるメルスを見て、急降下に移りました。私はその1機に軽く追いつき、地上数メートルの高さで射弾を浴びせて撃墜しました。
カリラ:彼はこの後再びズーム上昇して、観測気球を一撃で炎上させ、再び対空砲火を避けて地上スレスレに降りています。場所はビープリーから40キロくらいのところで、上空には多数(27機くらい)のヤク(*14)がいましたが、超低空でニルスが2機片付けたのに気がつかないんです(笑)
(『北欧空戦史』P402-404)
ユーティランネンによれば、メルスはこのような上下運動が得意だったという。フィンランド空軍のパイロット達は、機体特性を見事に活かして撃墜の山を築き上げていったのだ。
だが、ソ連軍の物量は圧倒的なもので、いかにカタヤイネンらが撃墜しようが、次から次へと新手を送り込んでくるのだった。さらにカタヤイネンには不運というもう一方の敵がいた。
7月3日、この日カタヤイネンはYak-9を2機撃墜した後、基地に帰投して、燃料弾薬の補給を受けてから再出撃した。Il-2の編隊を発見するや、すぐさま突撃、見事に2機を撃墜した。
ところが、敵機の反撃を避けるために低空に降りたところで、ソ連軍の対空砲につかまってしまった。敵弾はメルスのラジエーターを貫いた。このままではエンジンが冷却出来ずに爆発してしまう。カタヤイネンは前線から離れたところで胴体着陸をすると、急いで機体から離れた。機体は駄目になってしまったが、今回は身体は無事だった。
7月5日(7月7日? *15)、カタヤイネン最後の戦いの日である。
MT-476号機で飛びたったカタヤイネンは、ソ連船団を攻撃する爆撃機の護衛に付いた。ビープリー湾上空に到達した頃、ソ連軍の戦闘機隊が上がってきた。フィンランド空軍戦闘機隊は直ちに応戦、激烈な航空戦が展開された。カタヤイネンは首尾よく1機のYak-9を撃墜した。
しかし、船団の乱射した40mm機関砲がメルスの右翼に命中した。ちぎれとんだ破片が機体各所に突き刺さり、やがてエンジンから黒煙が吹き出してきた。脱出もやむなしと考えたカタヤイネンは、風防を吹き飛ばした。すると、風通しがよくなったせいか、煙が薄れてきた。これならば貴重な機体を捨てずに基地にたどり着けるかもしれない。カタヤイネンは機首をラペーンランタへ向けた。
だが、そううまくいくはずがなかった。まもなくエンジンから漏れ出したガソリンが気化してガスになり、コックピットに流れ込んできた。カタヤイネンの頭はふらふらになり、滑走路が見えてくる頃には意識はほとんどなくなっていた。
カタヤイネンのメルスは時速500kmで滑走路に突っ込んできた。減速も脚も出すこともできず、胴体着陸した瞬間、メルスは吹っ飛んだ。こまのように回転し、空中分解しながら、200mも飛んでバウンドし、さらにもう100m飛んでから、メルスは地面に突っ込んだ。ここでメルスは完全にバラバラになった。胴体は基地の建物の上まで吹っ飛び、エンジンはどこかに消え、翼は滑走路に横たわり、ランディング・ギアは近所の家の屋根に突き刺さった。
生存など考えられないほどの大惨事だった。いくら不死身のカタヤイネンでも、あれではとても生きていまい。ついに死神はあの男をとらえたか。基地の人間は残骸のもとへ駆けつけた。
コックピットから放り出されたカタヤイネンは、主翼のそばに横たわっていた。抱え上げると、全身がぐにゃりと弛緩していた。額がぱっくりと割れ、顔面は血まみれになっている。
ところが、まだ息があった!
カタヤイネンはすぐに病院に運ばれ、手術を受けた。全身各所に骨折を負い、額の傷は深かった。マグヌッソン戦闘機隊長も駆けつけてきた。その頃には、カタヤイネンは手術を終え、もうろうとした意識のままベッドに横たわっていた。
マグヌッソンは自分の胸から輝く勲章を外すと、カタヤイネンの胸の上にのせてやった。それはフィンランド軍最高の武功勲章、マンネルヘイム十字勲章だった。戦闘機隊ではユーティランネンやウィンドらエースたちが次々と受勲していたにも関わらず、カタヤイネンはなぜか縁がなかったのだ。
だが今、死にいこうとしているこの男に、最後の栄誉を与えてやって何が悪い。彼ほどこの勲章に値する男はいないのだ。ニルス、君はよく戦った、安らかに眠れ。それきりカタヤイネンは意識を失った。
しかし、カタヤイネンは死ななかった。不屈の意志と桁外れの生命力で死神の鎌を振り切ったのだ。(*16)
9月15日、不死身のエースは二ヶ月の入院生活の後、再び戦闘機隊に復帰した。とはいえ、もはや戦う相手はいなかった。フィンランドは去る9月4日にソ連との間に休戦条約を受け入れていた。戦争は終わったのだ。
最終的なカタヤイネンのスコアは出撃回数196回で撃墜35.5機(協同撃墜1機)。フィンランド空軍第8位の堂々たるスコアであった。
*10 兵力内訳は英語版WikipediaのFourth strategic offensiveより。
*11 もちろん、実際にはこんなことは言ってない。これはルーデルさんの台詞w
*12 Hans Henrik "Hasse" Wind。撃墜75機(第2位)。マンネルヘイム十字勲章を二度授賞。大戦時の最終階級は大尉。戦後も空軍に残り少将(中将?)まで昇進。
*13 キョスティ・カリラ(Kyösti Karhila)のこと。撃墜32機(第10位)。大戦時の最終階級は中尉。退役後に大尉を追贈(?)。
*14 ヤコブレフ製戦闘機のこと。おそらくYak-7かYak-9あたりだろう。
*15 『北欧空戦史』(P347)だと7月7日だが、その他のソースでは7月5日。
*16 もっとも、額の傷跡だけはずっと消えなかった。
戦後 -穏やかな日々-
ヘルシンキのヒエタニエミ墓地
1944年11月10日、カタヤイネンは空軍を除隊し予備役となった。ソ連の圧力によってわずか60機と制限を加えられた空軍に残ることに意味を感じられなかった。カルフーネンやユーティランネンら、他のエースたちも空軍を去った。
1944年12月21日、カタヤイネンに対しマンネルヘイム十字勲章が授与された(*17)。もともとマンネルヘイム十字勲章は、ソ連との戦いで勇敢な行いをしたものに与えるため、冬戦争の後に新設されたものだった。すでに休戦を迎え、ソ連は敵ではなかったが、彼がこれを受け取ることに反対するものなどいようはずもなかった。
戦後、カタヤイネンはヘルシンキ市役所に勤務し、定年まで堅実に職務を勤めた。
1997年1月15日、カタヤイネンは故郷ヘルシンキで亡くなった。享年78才。不運に取り付かれた男は、安らかに天寿を全うしたのだ。
今日、カタヤイネンはヘルシンキのヒエタニエミ墓地(Hietaniemi Cemetery)に眠っている。ヒエタニエミ墓地は、祖国に貢献した人々を国葬する地であり、マンネルヘイム元帥やマグヌッソン戦闘機隊長もここに眠っている。そしてまた、冬戦争や継続戦争で戦死した多くの無名兵士たちを称える石碑も立てられている。
もしもヘルシンキを訪れることがあったら、足を運んでみるのもいいかもしれない。その時には、彼のことを思い出してほしい。幾多の不運に見舞われながらも、不屈の意志で祖国の独立を守るために飛び続けた、「ついてないカタヤイネン」のことを。
*17 この時は、カタヤイネン以外に19名の兵士がマンネルヘイム十字勲章を授与されている。
参考書籍、リンク
中山雅洋 『北欧空戦史』 朝日ソノラマ
カリ・ステンマン/カレヴィ・ケスキネン/訳:梅本弘 『第二次大戦のフィンランド空軍エース』 大日本絵画
カリ・ステンマン/カレヴィ・ケスキネン/訳:斎木伸生 『フィンランド空軍第24戦隊』 大日本絵画
エイノ・アンテロ・ルーカネン/訳:梅本弘 『フィンランド上空の戦闘機』 大日本絵画
イルマリ・ユーティライネン/訳:梅本弘 『フィンランド空軍戦闘機隊』 大日本絵画
梅本弘 『流血の夏』 大日本絵画
小林源文 『街道上の怪物』 大日本絵画
http://www.sci.fi/~fta/finace08.htm ←カタヤイネンと機体の写真あり(英語)
http://www.cieldegloire.com/000_katajainen.php ←詳細な撃墜記録あり(仏語)
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GScid=639628&GRid=15362131&CScntry=29&
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_aces_from_Finland
http://heninen.net/brewster/english.htm
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以上でニルス・カタヤイネンの列伝は終わりです。
その戦歴はまさに不運にして不死身。これほど面白い(といっては失礼か)キャラクターをもつエースも珍しいのではないでしょうか。私はフィンランド空軍のエースの中ではこの人が一番好きです。
『フィンランド空軍戦闘機隊』の末尾で梅本弘氏は、カタヤイネンは不運に見舞われなければ、ユーティライネンに並ぶスコアを上げていたかもしれない、と述べています。
カタヤイネンは出撃196回で撃墜35.5機、対してユーティライネンは出撃437回で撃墜94機。
一番スコアを稼ぎやすいMe109に乗った期間だけを見ると、カタヤイネンがわずか二ヶ月なのに対し、ユーティライネンは一年半と比べ物にならないほど短い期間です。しかしながら、カタヤイネンがMe109であげたスコアは19機で月当たり10機、ユーティライネンは58機で月当たり3機です。もちろん、単純に比較できるものではありませんが、梅本弘氏の言うとおり、順調に飛行を続けていればユーティライネンのスコアに迫ってもおかしくない、と私は思います。(ちなみにハッセ・ウィンドは12日間で30機撃墜していたりする)
もっとも、スコアが全てというわけではありません。人間万事塞翁が馬。カタヤイネンの僚友ラウリ・ぺクリ(撃墜18.5機)の言葉もまたひとつの真実でしょう。
彼は「ついてないカタヤイネン」としてジャーナリズムに知られてきましたが、本当は「とてもラッキーなカタヤイネン」だったのだ。あれだけの事故でも故障がないのだから
(『北欧空戦史』P408)



引用が多いから、このまま載せるわけにもいかないので、かなり刈り込んでおきましたけどね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%A4%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%B3